初盆が終わります

現在、日付が変わる直前。初盆で帰ってきた風さんが今日いっぱいはまだ家にいるのではないかと考え、お付き合いしようかと思ったからです。

 

「初盆」とは言え、娘はピンとこないのか子供らしくそういうのには全く興味がないのか・・・自分も小さい頃はこういう風習っぽい物事にはまったく興味がなく、むしろそんなことよりも自分のやりたいことをしたい気持ちの方が強くて、そういうことに縛られるのが大っ嫌いでした。

その中には、お盆という亡くなった人間に関わることへの恐怖が含まれていて、その恐怖から逃れたいがための防御であったのも事実です。

でも年齢を経てそういった気持ちも薄らぎ、身内の死や知人の死も経験することである程度受け入れられる状況になったのが30とか35才を過ぎたくらいからでしょうか。むしろ、残される側としてしっかりとしておく必要があること、逝く人をしっかりと見送ることが大切であること・・・そういった気持ちをあまり肩ひじ張らずできる範囲で受け入れてやっていく、という気持ちになることができた感じです。

だから、もし自分と同じだとしたら、娘の行動も理解できます。ずっとかわいがっていた風が亡くなった。そのショックのシーンを思い出すのはとても嫌でしょう。でも事実として受け入れてはいる。そんな複雑な心境と、一方で子供であるがゆえの強さというか、大人ほどは感情が揺り動かされないことでの平穏さのようなものもあるのではないでしょうか。親が必要以上に慮らなくても良いのでしょうが、少なからず悲しみも含めた複雑な感情はあるでしょうから、我々は風のことであまり感情を高ぶらせない方が良いと思ってここまで1年やってきました。

とは言え、親の方は娘よりも風と一緒にいた時間が長く、娘よりも年齢を重ねている分の感情の起伏もあるわけで、風のことを思い出しては懐かしみ、悲しみ、ということがある1年でもありました。

ということで、このお盆数日の間は、娘に宣言して「ちゃんと風のことを思い出して懐かしむ期間」として振る舞いました。今日(16日)も(正しいタイミングかはわかりませんが)夕飯を食べる時にちゃんとお供え物をして(ちなみに相棒は風が亡くなってから毎日、ちゃんとお供え物を欠かさずにやっています)、遺影に向かって手を合わせて・・・ということをいつもよりはしっかりとやりました。娘も渋々付き合ってくれました。この「渋々」がどのような感情なのか、親としては気にかかるところではありますが、娘自身も説明ができないでしょうからそっと見守りたいと思います。

親の方は16年も一緒に過ごした風を失った悲しみが、薄らいできたとはいえ無くなることはないので、まだしばらくは風のことを会話に出してしまいますが、あまり度が過ぎると娘は嫌がるかもしれないので、ある程度気をつかわなければならないと思っています。

 

娘は、風を失った悲しみ、いつもいた風がいない寂しさ、それと同時に親の感情がともすると自分よりも風に向けられているのではないかと思ってしまうような切なさ・・・そんないろんな感情が交差しているのではないかと思いやってしまいます。考えすぎかもしれません。考えすぎかもしれませんし、そういった感情を経験することも大切なのですが、まだ当面は自分たちの心情よりも娘を第一に考えてあげたいと思います。

考えすぎなのかなぁ・・・。

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