正解はない

それなりに生きてそれなりに経験を重ねていくと、それなりに思うところが出てきます。

ポリシーとか信念と言えばかっこいいですが、悪く言えば思い込みとか偏見とかにもつながるものであるわけで、それって怖いなと。年齢を重ねても他者からの批評をしっかりと受け止めてできるだけフラットでいるというのはとても難しいことであるなと感じます。一方で、いつまでもフラットでいることが果たして良いことなのか、という疑問もあります。年齢と経験を重ねたことに比例して強い思いが出てくるのは当然なわけで、それがない方がおかしいという気持ちもあります。生きてきた社会、経験した内容によってそれが変わるわけで、すべてが一概に言えないものである、というのは間違いないところだと思いました。そういった部分・分野の真理は1つとは限らないのだろうなと。

 

40才不惑なんて絶対に嘘だ、と思ってしまう所以です。

 

さて、とは言え生きていくうえで様々な人と接し、頼りないながらも子を育て家族を養っていくうえで、自分自身の中での「骨」になる部分は必要であります。果たしてそれが正しいかどうかは別として、持っておかなければならないのだろうなと・・・自然と出来上がってくるものであるなと。それがなくて、その時その時の雰囲気や勢いで物事を判断して、場合によっては感覚でばかり動いていては心もとないです。関わりのある周囲の人たちも、そんな人間に信頼をおくことはできないでしょうし安心して付き合ってはくれないと思います。

100%、関わる全ての人に受け入れられる「骨」なんていうものはないですが、「骨」がないのはもっとたちが悪い。かといって、本人は「骨」だと思っているものが一般的に受け入れられるものではなかったり・・・他者から見たらおおむね間違っているものであったり、時には他者が聞いたときに気分を害するようなものだったり・・・するとそれはそれでたちが悪い、なんていう風に思っています。

自分の「骨」は何であろうかと。それをひたすら自問自答しながら身に着けていかねばならない、いまだ人生修行のみであるなぁという感想。

ここまで「骨」の話。

 

それから、「たち(性質)」の話。

これはもうね、まさに「三つ子の魂百まで」なんだと思うわけですね。この言葉の意味は2つあると思っていて、1つはやはり幼少期の親のしつけは大切だということ、もう1つは人はそうそう変われないということ。

人は変われないということばの受け取り方も2つあって、1つは「そう、自分はそうそう変われないから自分の悪いところがあってもどうしようもない」と開き直る考え方と、もう1つは「そう、人は変わることができないから、自分なら変わることができる」という考え方。そりゃもうね、後者の方が響きはいいですよね、なんというか「意識高い系の人」が好きそうな表現ですしね。

自分はどちらかといえば前者です。けれども前者の開き直りは建設的ではないということが嫌というほどわかるので、後者の考え方でいようと頑張ろうとしている、というのが現状です。でもこれは本当に難しい。本当に。

で、頑張っているけれどもそうそう変わることはできないので、今のところの回避策?として、「少なくとも人のことを悪く言うのはよそう」という考え方・・これも「骨」の1つかもしれませんね。自分は変わることができないことを自分は間違っていないと言い換えて、だから相手が悪いのだ、なんていうようになろうものならこれはもう最悪に格好悪い。大人じゃないですね。駄々をこねた子供と一緒。かまってちゃん、とも言いますかね。

今のところ、自分はそうそう変われない、でも変わらねばならない、本当に苦しい・・・というところで踏みとどまるのが精いっぱいです。そこで踏みとどまることができずに、他者を悪く思い、敵に仕立て上げ、場合によっては口に出してあしざまに言うことはありますが、それは場所と相手をわきまえて、それが苦しい胸の内であることを理解してくれる相手である場合にのみ、表現といい方を工夫して聞いてもらう・・・というようにしています・・・がきっとできていません。難しい。

まぁね、楽なんですよ人のせいにして人を悪く言うのは。楽。適当な理屈・・・屁理屈をつけて、どなりちらしてしまえばいいわけですからね。もちろんそんな人、周りの人間にしてみればまさに「たちが悪い」わけです。相手なんてしたくない・・・と避けられる・・・その人は孤立してきます。もうそうなったらね、おしまいでしょう。社会で集団の中で生きている人間が一人ボッチになったらね、生きていけるわけがないのですよ。もちろん、「たちが悪い人」はそんな状況になってもなお、自分の非を認めることはしないでしょう・・・というか気づかないのでしょうかね・・・から、もう・・・ね。

一方で、人間ていうのは自分の弱さや悪さをよく知っている生き物でもありますから、その部分って一番攻撃しやすい部分であったりするわけです。強い人間であれば、その自分の弱さを乗り越えるために、まさに「変わる努力」を重ねていくことができるんだと思うんですね。努力を重ね、その努力を自信(土台)にして弱い自分と決別できる。けど、そんな強い人間は少ないんです。ほとんどの人が自分の弱さに負けてしまいます。でも、それもまたそこで踏みとどまらなければならない。「自己肯定感」なんていう言葉がありますが、自分の弱さを乗り越えられない人は自己を肯定できませんので、そんな弱い自分を何とか防御して守ろうとします。それくらいでおさまって、何とか自分を守りながらも殻に閉じこもることなく、その殻を打ち破っていくことができるチャンスやきっかけを探し、いつか打ち破っていくことができればよいのですが、最悪なのはそんな自分を肯定できずに自分を攻撃すること。また、肯定できないけれども自分を攻撃することもできずに他者を攻撃すること。

私が思うには、自分や他人を攻撃する人は、つまり弱い人であるなぁと思うわけです。他者を攻撃することで自身を肯定しようとしても、そんなものできるわけはないのですけどね。いじめ、なんていうのも原因は同じなんじゃないかなと思う次第でございます。

 

まとめますと、社会で生きていくうえでこれが正解というやり方はないわけです。接する相手や時と場所が変われば正解は変わります。その正解が自分に合ったものである場合もあれば、自分の苦手なものである場合もあります。でも、そこで「攻撃」に入っては絶対にダメなのです。自分を攻撃するのもダメ、ましてや他者を攻撃するはもっとダメ。仮に自己を肯定することができなくとも、他者の存在を肯定し、受け入れ、その中で自分の居場所を見つけていかなければならない。それが人間なのだろうなぁと。

しんどいことですけれども、苦しいことですけれども、そうやって前を向いていかねばならんのですなぁ。