塾屋としては意見をまとめる良い機会~その2

先日の内容に引き続いてもうちょっとまとめてみたいと思います(「まとめる」と言いながら長文になっているので、まとめる能力の低さについては反省の余地大)。

今回の視点は、「そんなに科目数が必要なのか」について。少ない入試科目の大学もたくさんあるけどなぁ・・・というところからスタート。

 


 


 

科目数。河野太郎氏が言及している通り「科目数多すぎ問題」はその通りだと思いますね。全員が全員、ゼネラリストになれるわけがない。ゼネラリストがいてスペシャリストがいて。本題からはそれるかもしれませんが、そこで大切になるのは「本人の志向」と「本人の適正」が「一致するとは限らない問題」があることですね。本人は野球大好き、どうしてもプロ野球選手になりたい・・・が、実は陸上の長距離に向いていて、そっちの世界にっていれば大成したかもしれないのに・・・みたいなことはよくある話だと思うのですね。それは勉強の世界でも一緒で、自分は将来完了になりたいがそのためには(実態は変わってきているようですが)5教科9科目で合格しなければならないような大学に入ることがまずもって求められる・・・よって、自分は5教科9科目の勉強をしなければならない・・・が、実は数学の適性が低い方で、文系科目に注力してやっていれば未来は違ったかもしれない、というようなことは往々にして起こり続けているわけです。これはやむを得ないことで、本人がどうしてもそういう志向を捨てきれないのであれば適性が無くても、納得いくまでやり続けていただくしかないと。それでも、そういった特性を示してあげるような方法、志向と適性のミスマッチが起こらないようなサポートはあっても良いのかなとは感じます。

ようやく本題の科目数ですが、国公立大学でも「国公立大学 科目数 少ない」などで検索すると何十個もそれに該当する大学があるようですから、既に「科目数」に対しては大学側もいろいろと工夫をしていると思われますね。それなのに今に至って河野太郎氏の「科目数はこんなにたくさん必要なのか」という疑問の提示については謎が残ります。大学側は少しでも優秀な生徒に来てもらいたいと思うものです。学び舎ですから当然ですね。ですから、人気のある大学ほど質の高い生徒を選別するために「科目数を増やす」もしくは(および)「二次試験の問題難易度を上げる」ということをして、生徒を選別する策を残しておくのも当然のことです。もちろんそこにも「思考と適性」の問題は出てきますが、さすがに「私はどうしても東京大学で学びたいが、問題が難しすぎる。得意な数学1科目だけで受けられるようにしてほしい」という生徒がいたとして、そんな道理は通りませんよね、という話です(とは言え、特に私立大学は「指定校推薦」などのように、意欲や積み重ねの履歴が優先されるような試験も多いですから十分に対応しようと努力していると言えます)。国立大学を中心に総合型選抜を増やす取り組みも増えているように見えますし、総合型選抜で入学した学生の方がより成果を上げているというような分析の発表もあります。総合型選抜の形式の是非も触れたいところですが、生徒の状況(適正)をできるだけ配慮した試験の仕組みも用意されて提供されている。そして、そこをめがけた「競争」があり、「努力」があり、そこで勝ち抜いた人たちがその能力をいかして社会に貢献していく、という構図はあってしかるべきだと思うので・・・河野太郎氏が言う「科目数」を現状よりも減らすことが狙いなのだとするとそれは果たして適切な視点なのか、と思ってしまいますね。

実際、東京大学や京都大学の受験においては、5教科9科目という大量の科目の試験対応を十分にこなし、難易度がめちゃくちゃ高い(らしい)二次試験の対応を十分にこなし、その狭き門を突破していく人間が5~6000人もいるのです。全国に1学年が107万人ほど(2024年度の高3世代)いることを考えると6000人としても「0.5%」程度で、1000人のうち5人程度という狭き門ですが、1000人いたら5人は東京大学が京都大学に入る人間がいると考えると無理な数字ではないという感覚もあります。私が住んでいる新発田市が1学年800~900人ほどですから、新発田市からも年に1人とか2人くらいは東京大学・京都大学合格者がいてもおかしくない数字なわけですから、プロ野球選手になる確率からすれば東京大学・京都大学に合格することの方が可能性としては高いと言えます。新発田市からプロ野球選手なんて歴史上数名程度でしょうか、10年・20年に1人いるかどうかですよ。東京大学に合格するよりもはるかに難易度が高い。言い換えれば、大学受験の難易度は高いですが、多すぎて皆が挫折するというものでもない。プロ野球選手を目指すことの方がはるかに難易度が高いですよ。暴論ですが「プロ野球選手になるための要件を下げませんか?(プロ野球チームをもっと作って、プロ野球選手をもっと増やしませんか?)という提案はしないんですかね、河野太郎氏は。

ということで、大学受験について、むやみやたらに「科目数」という視点で増やして、難易度をあげるようなアプローチはするべきではないとは思います。将来、その人間が社会に出た時の課題解決などの行動・活動に不要な科目があるのは事実だと思います。直接役に立たたなくても、素養として補助的な視点として学ぶことは必要だと思ってはいますが、直接使えないものがあるのも事実です。そのような科目を必要以上に増やすのは無駄でしょう。だからと言って、今の枠組みの難易度を必要以上に軽減するのも不要だとも思いますね。十分突破していくことができる人間もいるわけですから。

むしろ用意すべきは、社会に出て自身の適性や足りていない知識やスキルに気づいた人間が、学びなおしたりキャリアを再構築できるような仕組みを企業に持たせる、その視点を補助するといった部分を構築することではないでしょうか。若いころは適正に気付きにくく、「自分がやりたいことに突き進む」傾向が強いと思います。それは悪いことではなく、むしろ大切なことなのですが、その適性が根本的に欠けてしまっているとしてもそれに気づくには相応の時間がかかると思うのですね。自分に自信を持てなくなるのが30歳や40歳を過ぎてから、という人もいるのではないかと。でもそういう人間が自信を持って学びなおすことができるような・・・難しいですけどね、働き方改革も含めてまだまだ取り組むべくはあるのではないかと思います。

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