難題です。説明も難しい。でもチャレンジ。(※記事はちょっとずつ追加していきます。)
今日は5月15日です。ニュースが掲載されてから10日も過ぎてしまいましたがちょっと追加します。今回は批判があるかもしれない内容を書くかもしれません。
(1)人の適正の根源はどこにあるかはわからないが、適正というものは存在する
これは勉強に限らず、スポーツ、人付き合い(コミュニケーション力)など様々な部分で存在していると思います。難しいのは、本人がやりたいと思っていることとその適性が必ずしも一致しない・・・一致しない場合が多いであろうところです。でも、だからこそ人はそのギャップを埋めるために努力をするのであり、努力が大切ですよ、ということにはなるのですが、それでもギャップが埋まるとは限らないというのも難しいところです。
例えば。運動が苦手な人であったり、もしかしたら持病を抱えていてどうやってもスポーツを極めるには難しい状況にある人が、「自分は野球が大好きだから何が何でもプロ野球選手になりたいんだ!」として、努力に努力を積み重ねたけれども断念せざるを得なかった。これはやむを得ないことです。もしかしたら、幼少のことから体操教室に通い、運動に適性があるような積み重ねができていたとしても、生まれつきの体系なども含めてそもそも「プロ野球選手になるほどの適性は持ち合わせていなかった」ということは十分にあり得ます。では、適性がない人の努力は無駄なのかと言えば当然それは「否」だと思います。価値観によりますが、私は努力した結果よりも努力する過程の方が大切だと思っているので。だから、結果は伴わなくとも努力を積み重ねるという非常に困難を伴うことをやり切ったことに「正しく自己肯定感を持つことができる」ようになることも大切ですよね。ダメだった、けど頑張った、その努力をその後の別の自身の生きていくと決めた道で発揮すればよいのですから。
話は戻って勉強・受験について。これもスポーツと何ら変わりませんよね。社会人になると「ブラック」なんていう言葉が出てきますが、子どもの頃の勉強やスポーツって「超絶ブラック」な世界ですよね。際限がないですから。勤務時間の上限もありませんしね、恐ろしい世界。そして、案外そこに「適性」という視点が重視されていない怖さもあるかなと思っています。
受験勉強というキーワードのもと、いったんは大学受験をゴールに設定した場合、最初に躓きやすいのは小学生の算数、掛け算~割り算~割合のあたりではないかと思うのですが、それ以前のところで躓いている場合も含めてそこでうまく積み重ねることができていないような子供(を持つ親)が、小5・小6になって偏差値60後半~70を超えるような中学受験の世界に飛び込んでいくのは相当な覚悟がいると思うんですよね。
(2)子供の適正と現状の学力をベースにして目標を定めて計画的にやっていくべきではないか
塾屋の良くない表現ですが、わかりやすくするために「偏差値」という言葉を使ってしまうのですが、要は偏差値が45の子供が50を目指す、これは良いと思いますね。残されている期間にもよりますが、小5で塾に通い始めた時に偏差値が45でした。だから半年~1年後にまずは50を目指しましょう。そこからさらに半年をかけて55を目指し、最終小6後半の受験期には60台を目指してその前後の中学校を受けていきましょう、というような予定を立ててやっていくのは良いと思います。しかし、スタート段階の子供の学力を無視して「何が何でも開成に行くんだ!」「桜蔭中学以外は考えていません!」みたいになってしまうとそれはどうかな、と思ってしまいます。
もちろん、幼少期の何かしらの影響で勉強について高い適性を持っている子供が、努力をしていなかっただけで、塾に通い始めてから短期間で目覚ましい成果を上げる場合はあります。個人的には(学校の定期テストの話ですが)、預かった中2の春の時点で5科目で250点に満たなかった生徒が、中3の2学期には470点を取るくらいまで成果を上げたような例もあります。
(3)とは言え、学力に高い適性がある場合でもそこには差があるのは当然
またスポーツに例えることになりますが、地域で1番の人が都道府県で1番になるとは限りません。地域で1番だけれども都道府県レベルになった時には決勝にも残ることができません・・・なんていうことはざらにありますね。その先も同様、都道府県で1番になったとして全国で1番になるとは限りませんし、日本で1番になったところで世界で1番になるとは限りません。
陸上の短・中距離なんて、日本で1番の人はオリンピックに出ることすら危ういですし、出られたところで予選突破をできることなんてほぼありませんよね。同じように、中学・高校入試でいえば灘・開成・筑駒(など)、大学入試でいえば東大・京大なんて、地方でトップを取っているから必ず合格するなんてことは絶対に無い訳です。
逆の視点で見てみましょう。勉強に非常に高い適性を持っている人間がいて、その人は努力もできる。その人は受験勉強なんていう枠組みを飛び越えたレベルの学力を有している。そういう人間も少なからず存在するわけです。つまりオリンピックの決勝に出られるような、プロスポーツの世界でもとびぬけた成績を当たり前のように出せるような、そんな人間は一定程度存在するわけです。そうした時に、「そのレベルでできる人、できてしまう人の中でも順位をつける必要性はある・・・なぜならそれは競技だから」という理屈が存在するのはおかしなことではないと思います。(ここで資本主義だ、共産主義だ、みたいな話にしてしまうと話が大きくなってしまうというか変な方向に行ってしまうのでやめます)
順位をつける、差をつけるなんてナンセンスだ!という人はいるでしょう。全員がその結果を受け入れられるメンタルを持っているとは限りませんからね。だったらその人は差がつく部分や差を付けられる部分に足を踏み込まなければよいのです。そういった生き方はいくらでもあるのですから。もちろんその結果も受け入れなければならない、というのは前提ですね。仕事だってあれやこれや言われていますけれども、同業他社に勝っていかなければならないのは当たり前のことですし、自分たちの畑を耕していかなければ食べられなくなるのも当たり前です。最低限のセーフティーネットは用意したうえで競争はあるべきです。その縮図・・・というかそれをぎゅっと濃縮して濃縮しきったものが受験勉強であったりスポーツの世界だと思いますね・・・何ならスポーツの世界なんてセーフティーネットないですよね、汚したら終わりですから。
(4)現時点での結論、難しすぎてナンセンスなんていうことはない
「自分の適性が低い」「自分の努力が足りない」のを理由に、「そんな難しい問題を出してどうするんだ?」と批判するのは結構だけれども、その問題を解ける人がいる。もしくはいずれ出てくる。そこに人間の進歩・進化はあるのです。その余地を奪ってはいけない。ウサイン・ボルトが100mをとんでもない記録で走っているのはけしからん、今すぐ協議をやめるべきだ、なんてなりますか? 功罪はあろうかと思いますがその進歩・進化は好意的に受け入れられているはずです。アインシュタインがとんでもない理論を発見して物理化学の世界を大きく進歩させましたが、そこにも功罪はありますが否定はされていない。同じことです。屁理屈ではないと思っています。
大切なのは、自分の今いる位置を正しく見定めて、正しく適正な目標を定めてそこに向けて努力をする、その結果はどうであっても努力をしたことを認める、そこを自己肯定感の根源として先に進んでいく、ということだと思います。
だから、努力を強いられると思うかもしれないけれども努力はどの断面であっても必要、重要。そこからは逃れられない。自分自身ができる適量の努力を積み重ねることに満足をしていけばよい。社会に出ると勉強・学力以外の人間性などもしっかりと試される。しかし、人間性だけで良いのかと言えば否、より過酷なビジネスの環境になればなるほど知識や処理量、現状把握力や問題中出力なども試され、その根底に学問の力があるのも間違いはないところ。だから学力も大切。
どの高校を出たか、どの大学を出たか、というだけで一生が決まるようでは良くないが、そうではない部分も多分にある(し、さらに強めていかなければならない)。けれども、学力の苛烈かもしれないが競争もまた重要であることも事実、そこで差を付けなければならなことも大切。それらいずれかをないがしろにするような試験であったり評価であったりは批判され修正されるべきだが、「難しい問題」だけを取り上げて批判して、というのは間違っていると考える。