茂木健一郎氏のTwitterには「『偏差値』を商売のネタにしている大人たちは心底から反省して欲しい」と書いてあるそうな。私もその商売をしている人間の中の1人かもしれないのでちょっと考えてみましょう。
戦後の教育観は紆余曲折の変化があり、偏差値という指標は現時点ではその残滓・・・残滓というにはあまりにもまだ存在感が大きいものではあるが・・・のようなものだと思っている。結果、「必要悪」という言葉に置き換えられるかもしれないが、世が世なら(昭和の行動成長期がそうであったように)必要なものでもあり、今はそうではない方向に行こうとしているだけ、という違いなのだろうと思う。
私が子供の頃・・・もう半世紀ほども昔のことになるが、親やそのまた親の世代は教育のことを江戸時代の寺子屋あたりが発祥と言われている「読み書きそろばん」と言っていたくらい。その視点で調べてみると、戦前の昭和初期(1930年前後)には既に日本の識字率はほぼ100%に到達しており、最近ではその前提で識字率の調査すらされていないほど。一方、高校進学率は戦後1950年台ではまだ60%にとどかず、私が生まれた1970年代で90%、いわゆる高度経済成長に伴い高校進学率が飛躍的に伸長し、同時に大学進学率も1970年代の10年間で27%ほどから37%ほどまで10ポイントほど伸長している。これは社会がより高度な知識と技術を持った人間を必要とし始めたからだ。当時はまだまだ知識が必要だった。インターネットなどない時代だから知識と技術を持った人間が必要であり、重要なポジションを占めていた。だからこそ、大学進学・高学歴がそのまま社会のポジションに直結しやすい構造となり、多くの人がそこを目指すようになり、結果として受験戦争が始まった。偏差値の誕生は1960年代と言われている。
一方で当時はまだ古い時代の感覚が根強く残ってもいただろう、「長幼の序」がより重要であった時代だ。子よりも親が、組織の中では上の立場の者が絶対、だからこそ勉学に励み、社会の中でより良い・・・より「上の」ポジションにつくことを目指す人間がより多くなった。高校進学・大学進学に必要な「学び」についても、知識を詰め込むことが重要で最優先事項であった。そういった環境の中で、大学や高校を、人を偏差値という物差しでえり分けるような視点が生まれて根付いていったのはやむを得ないものであったのだろう。(※とは言え、今のご時世では学習塾や予備校で「少しでも『上』の学校を」という、偏差値の上っ面だけをなぞった進路指導・アドバイスをするのも良くありませんね)
時代は変わった。情報はインターネットから指先1つでいくらでも得ることができる。学び、身に付けるものから必要に応じて調べて活用することが重要になった。長幼の序よりも、年齢や性別に関係なく、調和をとって良いチームを作りあることを成し遂げることの方が重要になった。チームを組み立てて機能させるには、前時代的な恐怖政治ではなく、対話が重要になった。詰め込んだだけの応用が利かない知識は不要ではなく、得た情報や構築したチーム・ネットワークから結果を残すことができるかどうかの方が大切になった。世の仕組みが変わり、世に求められるものが変わった。だから今さら「偏差値」だけで全てを物差しとするような近視眼的なことは言っているべきではないのである。だからと言って偏差値が無用なものと切って捨てるのは短絡的すぎる。偏差値も必要な側面があり、正しく見て正しく取り扱っていけばまだまた利用できるツールではある。
今の我々の世代は学びと進学(進路)の考え方と受け止め方の変化の真っただ中にいて、ちょっとずつ頑張ってその変化に順応しようと紋がいている世代と言える。いやはや、大変だ。それでも、いまだに知識を積み重ねることが強く求められる職業と進路がある。代表的なものは「医師」と「法曹(弁護士や裁判官)」であろう。国家資格に合格することが求められ、合格するためには膨大な量の知識を叩き込まなければならず、これはまさに前時代的な学び方ではあるがそれが必要であるためやむを得ない世界。実際、自分が病気になって医師に診察してもらっている時に、病気のことを何も知らない医者が「ちょっと待ってくださいね~」なんて言いながらGoogleで検索して調べようとしてたら果たしてどうだろうか。そのような医者に自分の命を任たくはない、と皆が思うのではないか。だから医師として求められる学力は前時代的ではあるが必要なものであるためそこに多くを指摘する人はいないし、医師という職業は他の職業と比較しても(激務ではあるが)安定しているし、収入も比べ物にならないほどよいというのも納得できる・・・それが競争を激しいものにしてしまっている原因でもあるがこれはやむを得ない競争だ。
結果として、医師を目指して勉学に励んで学力を積み重ねていく人間と同じくらい、勉強が得意だから医師を目指すという場合も多いようだ。これも最近は大きく変容しているようだが、まだまだその傾向は強い。結果として、受験戦争の頂点(敢えて「頂点」と表現します)は医学部への合格であり、医学部に合格するための学力を計る基準として偏差値は残り続ける、という形なのだと思う。もちろん、上記の通り学びと進学についての価値観はここ10数年で大きく変容し始めていて、よほど医師や弁護士などの国家資格が必要な職業を目指す人間でなければ、無理をして頑張って勉強をしなくても良い、という価値観も急速に広まりつつある。
学びの価値観の変容は、少子化とコロナ禍の影響も大きいように感じる。自分の子供には好きなことをやって良い人生を送ってもらいたい、という価値観の親が増えてきたのは、子供にかけられる時間とコストの対象が少子化で減ってきているからだと言える。また、コロナ禍で自由が大きく制限される数年間があったせいで「子供には好きなことを自由にやらせてあげたい」という考えの親はさらに増えたように思える。確かに、小・中・高校生という人生においてとても重要な経験ができる年齢のところで、中でも特に貴重な経験になる「修学旅行」「体育祭」「文化祭」などの行事を体験できなかった子供たちは本当にかわいそうだと思うし、自分の子がそのようになっていたら、やりたいことを自由にやらせてあげたいとより強く思うようになるのは自然な流れだろうとも思う。
話を戻すが、一部の人間の学びの究極の結果が医学部への合格となっていて、それは正しい仕組みなのだけれども、それを頂点とした仕組みが現在の受験戦争界隈の全体像だとすると、その根本の部分が変わらない限りは全体像も大きくは変わらないのではないかと思う。つまり、偏差値を扱う受験屋だけにその責を負わせるのはやや短絡的ではないかという指摘だ。我々は、どれだけ大変な思いをしても医師になりたい、弁護士になりたい、そのためには国家資格に合格せねばならず、そのためには相応の大学・高校に行く必要がある、という強い思いを持った人間をサポートするのが仕事であり、その夢の実現に向けてゴールと現在地点のギャップを明確にして少しでも最短距離を歩めるようにするためのツールとして偏差値というものが「便利だ」というだけの話。何でもかんでも「偏差値」という言葉で区切って、その人間の価値さえも偏差値でなりっているかのような考え方をするべきではないし、中にそういった人間が存在してしまうから話がややこしくなっているだけではないだろうか。茂木氏が言うところの「偏差値を商売のネタにしている大人」がそちら方面を指しているものであると信じたい。
まとめると、世の中が変わり学びに対する考え方・価値観や社会が求める人材像が大きく変容している今、学びとの付き合い方も変わっていかなければならないが、「受験界隈の全体像」のつき詰めた部分(主には医学部を目指す人たちと医学部入試の仕組み)で求められるものが変わらない以上、全体像も大きくは変わらない。しかし、偏差値の取り扱いは要注意であり、それがその人の価値を決めるもののような使われ方や伝えられ方になってはいけない。ある人間の夢や目標を達成するために必要な学びの力を手に入れるための物差し、他者との比較ではなく自身の現在地と目標となるゴールとのギャップを具体的に明確に把握して努力を積み重ねるための物差しとして取り扱うべき。結果として他者との比較が強制的に付随してくるが、ここを大人が悪用してはいけないし、子供たちの自己肯定感を担保してあげられるフォローとサポートを大人がしっかりとやっていく必要がある、とそんなところだろうか。偏差値そのものが否定されるべきではなく、それを正しく取り扱うことができていない人々は反省が必要、と。
最後は別の視点で、「スポーツや芸術の世界は学びと同じがそれ以上にブラックだが不思議とそれを悪く言う人はいない」という現状にも触れておきたい。より高い技術を身に付けるために毎日15時間ピアノを弾いてそのための学校に受かりプロになりリサイタルを開き世界中の人に感動を届けます・・・これを悪く言う人はほとんどいない。「すごいね、毎日15時間も練習するんだ。素晴らしい!」となる。スポーツや芸術は人を感動させられるから? 学びは人の役に立たないとでもいうのだろうか、そんなわけはない。つまり、夢や目標が医師や弁護士になることで、そのために寝る間も惜しんで勉学に励み、その結果が実るように試験を受け、目標としている大学・学部に合格できるかを確認するために偏差値で自分の位置を確認して、さらに夢や目標を達成できるように努力する糧とすることにもっとスポットライトが当てられて良いとさえ感じる。
当然のことながら、学問・スポーツ・芸術のいずれであってもより多くの人が夢や目標とする職業になるためには当然のことながら競争が発生する。これも芸術やスポーツと同じ。ただそれだけの事。全員が医師になりたいから全員医師にしてあげよう、とはならない。当たり前のこと。そこには競争が発生し、そこを勝ち抜く努力が必要、そしてそれはブラックな世界であり、そこに文句を言う筋合いはない。しかし、小中学校の義務教育の間は学び方面の競争を良しとはしない。一部ではスポーツの部分でも運動会で順位が付くと競争をやめる、とか点数で紅組白組に分かれて競い合いのをやめる、とかあるようだが、それは資本主義の自由競争社会において正しい視点なのだろうか。小学生の頃からある程度そのような波風に晒される準備をしておき、むしろ大人がそれを適切に取り扱って子供たちの今後の糧となるような題材としていけば良いのではないだろうか。社会に出れば何でもかんでも競争なのに、その準備の場を公教育のありとあらゆる場面から取り去ろうとするなんてちゃんちゃらおかしい。競争はある。その中でいかに自らの生きる道を見つけて自らの足で歩んでいけるかが大切。そのような視点を周りの大人が持ってサポートしていくことも大切ではないだろうか。
制度的には良い大学の基準を偏差値などに頼らなくてよいようにもっと明確に設定して公開していく、という学校側の努力も必要ではないか。受験業界に身を置いてはいるけれども、例えば「大学で宇宙のことを学びたい」という思いを持った子供がいたとして、その子供に「宇宙を学ぶにはどの大学を目指せばよいのか」と聞かれた時に、いくら調べても明確な答えは見つからないのです。人によっては「宇宙の何を学びたいかによって変わる」などのツッコミはいくらでも入るのでしょうが、そこまで明確になっていなければ進路を決められない仕組みが悪いと言いたいくらい。大学の選択肢が多い首都圏などであれば、公開講座を受けたり、情報も多いしそれに触れる機会も多いだろうが地方ではそれは難しい。そのためにインターネットを使って・・・と思うが、インターネットを使っても決してわかりやすくはない。例えばそういう情報が得やすくなって、そこで学ぶためにどのような準備をしておくべきなのか、がわかれば学びとの付き合い方ももっと変わるのではないだろうか。
また、より学びについて特性が高い人間のため飛び級など柔軟に学びを進めたり、逆にとどまってじっくり学びを進めるような仕組みもあって良い。これも上記と同様で様々なデメリットもあるだろうからそれをカバーする大人の視点の補強、サポートの体制も整える必要があるがより偏差値に頼らなくてよい環境を作るには近道になるのではないかと考える。
短絡的に「偏差値がダメ」とか「塾や予備校はダメ」となってほしくはない。またそのような受け取られ方をされないように我々の業界自体も学力や学びの捉え方、伝え方をより正しい形に近づけていかなければならない。変化が必要な時代である。