毎日新聞、富山で終了する


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※タイトルは、実際に起こっていることの一部を切り取って誇張した表現です。具体的には終了することの目的語が抜けています・・・意図的に抜きました。でも、昨今もてはやされるネット上に低品質な切り取り記事はこのような書き方をしていますよね。これをさらに切り取るのであれば「毎日新聞、終わる」みたいな書き方をするのでしょうね。当たらずとも遠からず、「うそを書くな!」と言われてもギリギリ「嘘ではないですよ、言葉足らずですいません」と言えなくもない表現でしょうかね。でもそんなつまらん記事の書き方に頭を使ってもなんも面白くもないと思うのですけどね。でも、世の中にはそんな記事・ニュースがあふれている感じがします・・・。で、本文。

 

 

新聞はオワコン的な話はしばらく耳にしていましたがここまでとは。一定程度しぶとく生き延びるのではないか、なんて思っていましたがそれは古い考え方といいますか、世の流れ・世の動きを全く持って見越せていなかったのだなぁと、そちらの方がショックですね。

富山県内で840部、毎日新聞全体ではピーク488万部から200万部程度まで減っているらしい。そりゃあね(もうその程度の数のために富山にいろいろ拠点を置いておくのは無駄だから撤退しますという判断も妥当)、という数字。別の報道では新聞社全体の数字として2018年までは年3~4%の減少ペースだったのが、2018年から減少ペースが一段上がり5~7%で発行部数が減っているらしい。いろいろな理由がありながらも、そもそも言論で勝負しなければならない人たちが「ネットで受けるかどうか」を基準に記事を作成・選別しているという話、それが事実だとしたらそれはもうつぶれるしかありませんよね、といったところだろうか。

インターネットの登場により、真偽はともかくとして情報が瞬時に流通しやすくなった今の世の中、スピードや話題の大きさでは勝負にならないのが新聞というメディアだと思うので、その真偽であったり論調で勝負するしかないのだろうが、そのようなお堅いものはなかなかに(特に若い人を中心に)受け入れられないのかもしれない。とは言え、そうなってしまうと、我々は個人単位で情報取り扱いの精度を上げていかねばならないということになるが、それは非常に困難なことだ。ただでさえ、核家族化、1人暮らしで横のつながりが薄い世の中になっている現状では、自分の考えと合わない人やコミュニティーの中で意見をやり取りしなければならないようなストレスが遠い存在になりつつある。となると、それぞれの個人がそれぞれの経験値や置かれた環境にのみ頼った思いや考えに収束してしまい、自身の考え方や価値観と異なる視点とすり合わせることなく袋小路にはまってしまいやすいような気がする。陰謀論などが流行ってしまうのはそのせいだろうか。個人が、その人が受け入れがたい考え方や価値観とも向き合えるコミュニティーの設置・回復、今あるコミュニティーをそのように維持していく努力も必要かもしれない・・・まさにダイバーシティー(多様性)の許容。例えば学校なんかはその最たる例ですが、問題はその先ですよね。強制的にコミュニティーに属す必要がなくなってからのケアも必要かもしれません。

私自身もそのような袋小路にはまり込まないように気を付けて、できるだけフラットな視点・価値観を持てるような年のとり方をしてきたいなと思わされるニュースでした。ネットの偏った論調に左右されないように、自分の思い込みだけに頼った偏った視点になりすぎないように。

 

この記事を書きながら、過去の自分の記事を見てみたところ同じようなことを何回も書いていますね。これが私の信念ということでしょう、今のところ。「2015/12/3 マスが死ぬということ」「2014/11/20 注目記事(パーソナライズされた関心集団)

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