9月 122018
 

テニスの四大大会の1つ、全米オープンテニスで日本人選手が優勝した。

遡ってみると、個人的には箱根駅伝に留学生としてアフリカからの学生が日本人選手に交じって出場するようになり、そういった選手を多く抱えた大学が幅を利かせていた頃、あれが「日本人とは何ぞや」というものを考えるきっかけになったような気がしている。

個人的には。

例えばオリンピックは国対抗のスポーツイベントであり、数あるスポーツイベントの中でも最高峰のものの1つだ。同様にサッカーのワールドカップもそうだが、やはり国対抗というのが基本になる。

それは国同士がいがみ合うというものではなくて、自身の生まれ育った国への愛国心、帰属心、最低限のナショナリズムを喚起するきっかけになるものとして必要だから、なのであろう。

まぁもう少し大きな観点に立つと、ボーダーレスという言葉もあるように、またEUのようにもう少し広い視点に立って「国・国家」という枠組みから解き放たれようとしている人たちもいるので、過剰なナショナリズムは不要な時代にはなってきているのだろう。ビジネスを考えてもナショナリズムが強すぎる企業の成長には限界があるように思える。

 

話題を元に戻すと、箱根駅伝は日本人による日本人のための競技だと思っている。当然、選手たちは将来のオリンピックでの活躍なども視野に入れて努力を積み重ねているのだろうが、その多くは駅伝にすべてを費やし、駅伝に出場することを夢見て、チームのために仲間のために4年間で燃え尽きてよいと思っていると思われる。甲子園を目指す高校球児もそうだ。

それでは将来はどうなるんだ。若者の明るい将来をぶち壊してはいけない、という意見・観点もあるのはわかるが、そういうスポーツへの取り組み方が間違っているか、と言えばそうではないと思う。3年間・4年間、1つのことに注力してすべてを注ぎ込むという経験、またそこで得た友の存在は、その人のその後の人生を豊かにしてくれることは間違いない。

 

そんな考え方をしている人間だったので、この10年くらい、体が強い外国人とのハーフである子供たちが日本人として各種スポーツ協議で活躍する場面を見て、「日本人」として嬉しく思い、勇気をもらう一方で、厳密な意味での・・・体の強さという意味でのポテンシャルがそれほど高くない人種・民族としての日本人と考えたときに、その活躍は素直に喜んでよいものなのだろうか、という気持ちがあったのも確かだ。

そして、2018年全米オープンテニスの優勝者である大坂なおみ選手はまさにハーフであり、そんな大坂選手を私は日本人の国籍を有している選手、という捉え方をしていた。

 

しかし、決勝戦での彼女のふるまいを見て、その考えが間違っていることを痛感させられた。優勝したはずの彼女が、対戦相手に感謝し、対戦相手を応援してその優勝を願っていた地元の観客に配慮したスピーチをした時、「あぁ、この人は根っからの日本人なのだ」と思った。

冷静に考えてみれば、日本のように島国ではない国々では、国境を越え、地域を超えて生活をし、結婚をして子が生まれる、というのはよくあることであっただろう。そういったことを積み重ねて互いの良いところを取り入れながら、スポーツでも良い部分を遺伝的に受け継いだ人々が華々しく活躍してきた一方で、日本はそういう交わりが他所よりも少なく、結果として交わりが少ないが故の(スポーツという場面での)苦しさが強かったということなのだ。

そう考えると、国際化の今、国や人種という境を積極的に意識のうちから取り去って、より幅の広いコミュニケーションを積み重ね、より良い関係を積極的に作っていくことが求められているわけで、そういった様々なコミュニケーションの積み重ねの向こうに、いわゆる古くからの日本人であるような「見た目」という境界線=色眼鏡を取り払いさえすれば、より明るく楽しい、幸せな未来が待っているだろう。

 

偏見とは難しいものだ。いつの間にか身に付けてしまい、一度身に付けてしまうとこれを取り去ることはとても難しい。けれども、偏見があってよいことはない。今回の全米オープンテニスはそれを教えてくれた。

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