古典が無駄とは

さて。上記リンク先はニュース記事元のページになっています。こういうのはいろいろと思うことがありますね。ちょっと考えをまとめてみます。

「勉強」と「学び」。このように表現を分けるだけでもかなり受け取り方や伝わり方も変わります。ここでは「勉強」と「学び」を区別されずに議論されている印象です。

 

◆まず「勉強」。これはどちらかというと「義務教育」の中で施される「授業」を通じて身につけるもの、身につけなければならないものであったり、その先にある「高校入試」や「大学入試」など「試験」につながっていくもの、というイメージ・・・といいますか、少なくともここではそのような定義で話を進めます。つまり、「勉強」の先には「試験」があると。

となると、「時間が無限にあれば・・・」とか「有限だから・・・」という話につながるのは理解できます。

進む先に「試験」があるということになると、「時間」に加えて「能力」であったり「キャパシティ」といった「個人差」とも加わってきます。もちろんその能力に影響する要素として「メンタル」もあります。そういった様々なものの総合力があったとして、その上限はありませんね、個人によりますから。すると、「勉強・試験」に対する総合力が50くらいの人もいれば100の人もいれば・・・1000の人もいれば5000の人もいるわけで、学校で勉強しなければならないことに対して「時間の無駄」と感じるような人はその総合力が高いとは言えない人だというだけのことです。その人にとって必要な力が1000であるのにその人が発揮できる力が500だったとしたら、それは確かに「時間の無駄」と感じられる部分があるのは当然。

一方、求められる力が5000であったとしても、その人の能力が7000あれば、余裕があるわけなので「時間の無駄」にはならない(そうは感じられない)可能性が高いことになります。5000の力を発揮してもまだ2000のお釣りがあるからですね。

つまり、このコメントを出している人たちは、(自らが目指したいと思っているところにいくために)求められる力に対して、自らの能力が足りていない(もちろん足りていないから皆努力をするわけですが)から「無駄」という視点・概念が生まれてくるといえます。もしくは「好きか嫌いか」でしょうね。だからおそらくこれを言っている人は「古典が好きではなかった」のではないでしょうか。だからそれを自分のものとする能力とするにも至らなかったと。それでも(嫌いなものだとしても)乗り越えるメンタルを持っている人はいますし、乗り越えてしまう能力を持っている人もいるのですから、やはりその人にとって能力が足りなかった。それだけのことです。

 

◆そういった前提に一切触れずに、「「古典は無駄」と十把一絡げに切って捨てる」のは全く持ってナンセンスですね。「世の中に出て・・・」という表現も全く持って的外れ。その人にとってはそうだっただけですよね。古典を使う必要がある人生の道を歩む人だっているわけです。そういったことを一切が一切抜きにして「古典は無駄」というのはもうなんと短絡的な表現であるか。

もっと言えば勉強なんてものはそういうものです。なぜなら(私の定義においては、かもしれませんが)その先にあるのは「試験」ですから。試験を突破するために必要な「努力」を積み重ねることができる人であるかを試されているかもしくは、試験を突破するに足る「能力」を持っている人であるかを試されているのです。それが人生において、社会において必要かどうかはこの際関係ない。上に書いたように、人によってそれが必要な場合もあれば必要ない場合もある。そんなのは当たり前。幅広く勉強をしておくことで、その先に自らが進むべき道がわかるというもの。自らの適性もわかるというもの。それだけのことです。将来、世の中に出て、自らが進んだ道でそれが必要かどうかは関係ないのですよ。

このコメントを出している人たちは「自分にとって」「自分の経験値の中で」「自分の能力を基準として」という非常に狭い視点の中で「無駄」と言っている非常に残念な人たちと言えます。そして、こういったコメントに対して同調する人たちも同様ですね。自分の経験値と自分の能力しか判断の基準がない、非常に視野が狭い人たちです。

 

◆視点を変えて「学び」。これはその先に「試験」のようなものはないけれども自ら興味があって必要があって身に着けていくもの。「教養」といった言葉でも表せるかもしれません。コメントをした有名人に対して「古典はよいものです」と反論している人たちは「勉強」としてではなく「学び・教養」としての「古典」という視点で反論しているように見えます。これは正しいけれども、議論としてはちょっとかみ合わないでしょうね。見ている角度が違いますから。

 

◆ということで「古典」が必要か必要ではないか、有益か無駄か、なんていうものは状況によって異なるし人によって異なるので、それを一般化することはできない、というのが私の意見です。そしてそれを他者に対して強要することもできないし、そんなことをしても意味がない。「え~信じられな~い」なんて言っても意味がないと思いますね。

 

◆最後はどうしても塾屋の視点になるのですが、例えばその人が将来進みたい道があって、その進みたい道に入っていくためには突破しなければならない試験があったとします。例えば大学受験とか高校受験ですね。進みたい道は理系だと。でもその大学や高校ではより幅広い知識・教養を持った人間たちの多くに視点から、様々な角度での議論や研究ができる人間を求めているとして、結果として「古典」を身につけられていることを条件とします、理系の学校だけど・・・という状況があった時に、「理系を学ぶのに古典が必要なんて無駄だ。古典を試験科目から外してくれ。」なんて言えますか。まぁ言ってもいいですが、学校側としては「では来なくて結構、試験を受けていただかなくて結構」で終わりです。そういうことです。

 

◆カンニング竹山さんが「古典なんて役に立ったことがない」とおっしゃったのがきっかけとなっているようですが、竹山さんの経歴を拝見するに「古典が役に立つ人生は歩まれていない」ですね。大学受験でもうまくいかなかったようなので、私の書き方でいえば100の力が必要な道を進むにあたって50の力しかなかったという方なので、その能力の方がその経験値でもって「古典は無駄」という結論にもっていくのはいかにも短絡的ですね。でも、これをきっかけとしていろんな人の意見・議論になったのはとても良いことだと思います。私もこうやっていろいろと考えるきっかけをもらえましたし。

 

考えること、大切。

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