「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由(阿部 幸大) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
深刻かつ重要な話題。教育業界の隅っこに身をおいている人間としてこの一年ほどずっとこのことを考えてきた。
新潟という地域の学習塾にいて、親の期待感・生徒の期待感とやる気・こちら側の思いの微妙な、でも根本的なズレがある。
おそらく、子を持つ親として「勉強なんてできなくて良い」という親は少ない。表面上は言っているとしても、それは「出来たら良いに越したことはないが」という枕詞が隠れていると思う。もしくは、「勉強はできるようになってもらいたいけれども」のどちらかではないだろうか。もちろん、心の底から本当に勉強なんて不要だと思っている親もいるのだと思うが、そういう親に対するアンチテーゼともいえる内容だ。新潟のような地方としても、通塾率は50%を超える。都市部では7~80%にも達するのではなかろうか。やはり自分の子には・・・という思いの親は多いのである。
一方で、この新潟には大学を出ていなくてもしっかりと働いてしっかりと家族を養っている人も多い。そこで必ずまた最初の「勉強なんて・・・」という話題に立ち返る。大学に行くべきだ、という論調は、一歩間違えば地方で大学に行かずにしっかりと生きている人たちの存在を否定することにつながりかねない危うさをはらむ。その点は頭の片隅に置いておかなければならない。大学を出ても充実した社会人生活を送ることができていない人もたくさんいる。そんな現実を見るとなおさら、小~中~高としんどい思いをして大学に行ったって必ずしも幸せになるとも限らないんだから、頑張る必要はないというような言い分が幅を利かせてしまうのである。
でもやはりそれは違う。
学ぶことは人を豊かにする。人間は「文化的な」生活を送る権利があるのだ。そして文化の土台は知であり、知とは思考であり、思考するには学びが必要だと思う。学びにより先人の知恵を身に着け、それをもとにさまざまに思考することで知識を身に着け、新たな考えに至る、その繰り返しと積み重ねがまさに文化であり、その中で人と関わりながら生きていくことが「文化的な生活」であるといえる。文化的な生活を送っていくには知が、学びが必要だ。
度を超えた、大学に入るためだけの学びは正しくないように思う。それは目的ではない。身に着けた知を思考を武器にして世の中を渡り世にその武器を還元していくことが目的だ。
そうやって考えてくると、まさに地方であることはリスクでしかないように見えるが、そこを打破するのはやはり親なのだと思う。どこぞの女性問題で辞職なすった知事がいますが、この人はまさに知という意味では打破した人であった。新潟の片田舎から灘高校~東京大学と進み、医者にもなり弁護士にもなったわけだから。その親御さんは本だけは惜しみなく買って預けたという。それなのに人としての文化的な部分の思考は地方の限界を突破できなかったのだろうか、しなくても良いだろうに大阪府知事に(しかもわざわざTwitterを使ってまで)ケンカを吹っ掛けたり、今回の女性問題を起こしたりという結果を見ると、頭いいだけの常識に欠けた人にしか見えないからだ。いずれも県の代表という看板を背負ってやることではない。
ということで、知と文化とこれは両輪、どちらも必要ということになるわけだが、地方にいるとそれだけでそのきっかけを与えられないという不幸が存在するということは間違いない。そういった環境を打破し、学ぶ環境に触れ、魅力を感じ知を身に着けていきたいと多くに人に思ってもらえるような、そのために親がやらなければならないことはどんなことなのか、少しでも役に立てるような活動をしていきたい。
現段階では、まずは親は子をしっかりと見て適切にかかわること、これしかないのだとは思っている。