センター試験とムーミン

詳しくはGoogle先生の検索結果をご覧いただくとして・・・これでも塾業界の端くれにいるものとしてちょこっと考えをまとめておきたいなと。



問題として適切かどうか、についての議論がなされていますが、個人的にはあってよいタイプの問題だと思っています。むしろ全く問題ない。

世の中が答えのないところに答えを見出そうとする力が必要であると定義して、教育の考え方がそちらに向かおうとしているところで、確かに国が定めた制度としてセンター試験というものが存在し、またその試験がマークシート式である状況はありながらも・・・つまり確実に問題を絞り込めるような出題であることが望ましいのは間違いないのだろうけれども、そうじゃないこういうタイプの問題が含まれていたほうが、入ってくる学生を取捨する大学にとっては良かったりするのではないでしょうかね、と思うのです。

実際、社会に出て仕事をやり始めると問題・課題の設定すら自らに課されるものであり、それに対する回答も自ら求めなければならないですものね。確かにセンター試験と仕事は違うかもしれませんが、本質は同じであると思うのですよ。だから1つの問題の妥当性やら何やらで四の五の言っているような人はきっと社会に出たところで大して役に立たない人なんだろうなぁとすら思ってしまうわけです。

その問題が正しいかどうかの議論はあるとしても、出題者はきっとこういう意図でこの問題を出しているのだろうからこういう回答の導き出し方をすればよいのだ、と考えていけばよいのでしょうし、仮にそれで間違ったとしてもほかのところで点数をとれていればよいのでしょうし・・・といくらでも理屈も屁理屈もつけられるなぁと。

しかも今回の問題はシンプルにムーミンともう一方の選択肢がバイキングですからね、バイキングはフィンランドではないと設定できれば難しくもなんともない問題と言えます。テレビではそのバイキングのアニメの原作者がそもそもスウェーデンの作家が書いたものだから・・・なんていう人もいますがそんなことを問うている問題ではないことがわからない時点で終わってる、と思いますよ。

学者さんがこういった部分で問題提起をして議論をするのはまぁ良いでしょう。勝手にやってくださいと。でも、出題された問題を解く側としてその出題に対して文句を言うべきではないと思いますね。自らの力不足を嘆きなさいと。

何年か前に日本テレビの入社試験を受けて、合格がのちに取り消されたことで裁判を起こして入社した人がいた、なんていうニュースがありましたが・・・裁判で判決が出ているのであくまでも私見でしかありませんが、あんなめんどくせー社員いらねーなと。「ホステスに清廉性がないという考えは偏見」とWikiには書かれています。確かに偏見ですが、偏見持った人は世の中にごまんといるわけでだから会社側はそういった印象を持たれることを嫌ったわけで、それの何が悪い!と。

結果、入社をして今はアナウンサーをやっているようですが、私は(お酒が飲めないこともあってそういったところで働く人に偏見を持っていますので)そのアナウンサーが番組に出ていたらその番組は見ませんね、絶対。偏見を持つことはあまりよくないかもしれませんが、相手を傷つけない限りは偏見を持ってもいいでしょう、別に。

ということで、件のアナウンサーは、アルバイトをするときにそういったことまで想像力を働かせることができなかったわけですよ、自分がどれだけあこがれていた職業かわかりませんが、どうしてもなりたかったわけでしょう、アナウンサーに。テレビを見る偏見を持った多くの一般人がどのように自分を見るのか、が考えられなかった時点で内定を取り消しされても仕方ないと思ってしまいますね。裁判の結果にむしろ驚くくらいです。

ということで、長々と書きましたが、そういう意味ではセンター試験がなくなることは正しい流れでしょう。最低限の基礎知識はしっかりとテストしながら、その人の人となり、経験、品格といったところをしっかりと図る試験を用意していくべきです。

これからの親は、子供を言うことを聞くようにしつけていくのではなく、(当然、人に迷惑をかけない、といった当たり前のしつけは必要ですが)主体性をもって自ら世の中にかかわっていくことができる人間を育てていかなければなりませんね。

ダメを押し付けるのではなく、いいねを押し付けるのでもなく、それはなぜ良くて、なぜダメなのか、良いとしたらどうしたらさらに良くなっていくのか、ダメだとしたらどうやったら改善するのか、という思考を持つ。なぜを積み重ね、歩みを止めずに前進し続ける強さが必要、ポジティブでいられるためには主体性が必要なんだと思います。

だから、ムーミンの問題は問題ではないのです。

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