英語教育, プログラミング教育

教育に携わっている人間としては、これからの教育については大いに興味があるところです。

キーワードは

  • 英語教育
  • プログラミング教育

ですね。

まず、なぜ今そういったキーワードが出てきているか、から考えなければなりません。

今の時代、IT機器のないビジネス現場というものは考えることができなくなっています。IT機器を使うことで、一昔前ではできなかったことがどんどんできるようになり、ビジネスの在り方が大きく変わってきており、かつこれから先もどんどん変わっていくことが考えられます。

私が社会人になったのは20年前、地方の中小企業ですが、社員はまだワープロを使っておりました。入社して数年してから社員全員にパソコンが配布されました。Windows95です。さらにそこから数年後、それらのパソコンがLANでつながれ、社員全員にメールアドレスがあてがわれ・・・その後も様々な変化を経ながら今に至っています。

つまり、20年・・・人が生まれて大人になるという1つのサイクルの中で、これだけの変化が起こったわけです。次の20年が過ぎた先にはどのような世界が待っているのでしょうか。

これが、教育の変化の源です。

 

社会が変容している、しかも猛烈なスピードで。これからの子供たちはそういった変化が続く世の中を力強く生き抜いていかなければなりません。そこで、教育はそういった子供を育てることに主眼が置かれなければならなくなったというわけです。今までのように、定められた範囲で、やりなさいと言われたことをしっかりとやるだけの人間だけではダメな世の中がやってくるのです・・・いや、もう来ているのです。やるべきことは当たり前のようにやりながら、どんどんクリエイティブなイノベイティブなことをやり続けていく、そんな人材が必要となってくるのです。

 

1つ目、英語教育。

これはITにより、ネットにより、世界の距離がどんどん縮まっているところから、いつまでも日本という国の中だけで勝負をしていくだけでは立ち行かなくなってきているところから、英語くらいは最低限できなければなりませんよ、という情勢から来ている変化です。

中学生からでは遅い。第二の言語として、学習として英語に触れるのでは、身につかない場合が多いからということでしょう。確かにその通りですね。ただし、個人的には英語を話せるようになるために小学生から英語を学ぶことというのはそれほど大切なことではないと考えています。

そうではなくて、英語を話す人と、物おじせず、間違っても良いからどんどん英語でコミュニケーションしていくような土台を作り上げることが大切なのではないかなと思います。だから、日本語が話せる小学校の先生が英語を教えても、まったく意味がないと思っています。英語しか知らない、英語で話さないと意思疎通ができない人間=ネイティブの人と接して、間違ってもたどたどしくても頑張って表現さえすれば、伝えようという強い意志さえ持てば何とかなるのだ、という安心感と言いましょうか、恐れて英語から逃げてしまうような状況を作り出さないことが大切なのだと思いますよ。

日本語の下手な外人が頑張って日本語を話そうとしていたら、我々は頑張って理解をしようとするじゃないですか。同じです。そこがスタートですよ。でもそのスタート地点にすら、怖くて立つことができない人が大半なのです。だから、せめてスタート地点に建てるようにしてあげること、それが小学生のような低い学年から英語に触れることの意味だと思っています。

繰り返します。

日本語を話すことができる先生に英語を習っても英語は身に付きません。

 

もう1つ、おそらくITの進化により、20~30年後くらいには機械(PC)がすべて翻訳をしてくれるようになる世界がやってきます。とても自然な翻訳を、待ち時間なしに、です。だから、今の子供たちの次の世代の子供たちは、言語の学習をコミュニケーションの手段としてはやる必要がなくなるのではないかと思っています。

コミュニケーションの手段としては言語の学習は必要ないと思いますが、言語の学習自体はなくならないと思います。言語の成り立ち、構成を学習することは、自らの意思を正しく表現して正しく伝えることに必要不可欠だからです。今の子供たちも、焦らず英語よりも正しい日本語を身に着ける時間をしっかりと持つべきでしょうね。

 

 

2つ目、プログラミング教育。

これもまたね、「プログラムできる人」を育てる教育のようにとらえている人が多くてもう・・・。文部科学省が設定しているプログラミング教育をやる理由は、「論理的思考力」を育てるためのツールとして有用であること、また「問題解決・課題解決の思考・姿勢」を育てるためにも有用であることですよね。

プログラムとは、まずはどんなプログラムを組んだら、PCが思い通りに動いてくれるかを考えます(PLAN)。次にその通りにプログラムを組み、動かします(DO)。思った通りに動いてくれているかを確認(CHECK)し・・・ほとんどの場合が想定通りになって動いてくれませんから・・・なぜ正しく動かないかを検証(CHECK)し、対策を練って修正します(ACTION)。これを繰り返します。

この行動は、プログラムを組む時だけでなく、生活のあらゆる場面で役立ちますね。だから、それを身に着けさせようと。そういった行動を地でやっていくことができる人材を育てることが大切なのです。

それなのに、です。

すでに当初の目標は薄れ、IT社会だからプログラムができた方が将来の就職に有利だろう、として、プログラムをただのスキルとしてとらえて売っている会社があり、子供にプログラムをやらせようとする親がいる。ひどい状況ですね。

プログラムがスキルとして身についている人なんて世の中にごまんといるのです。私がお付き合いをしているIT技術者の中には、会社に入ってから実地でプログラムを学んで身につけてプロフェショナルとして活躍している人もたくさんいます。大切なのはスキルとしてのプログラムではないことを理解したいですね。

 

実際にシステムを構築する、なんていうビジネスの活動(プロジェクト)をする際は、非常にたくさんの人間がかかわります。

まずはシステムを導入しようとしている会社の担当者(プロジェクトマネージャー)がいて、えらい人たちがいて、導入されたシステムを使う現場の人間がいて、現場の人間が使った結果のデータを扱う人・・・経理とか総務とかがいて、現場の人間がお付き合いをしているお客様がいて。

さらに、システムを作る会社の担当者がいて、えらい人たちがいて、プログラムを組む人がいて、品質管理をする人やシステムを売ることで入ってくるお金を管理する経理の人、プログラムを組み人の労務環境を管理する人事の人がいて・・・とにかくたくさんの人がかかわるのです。

そういったたくさんの関係者(ステークホルダー=利害関係者)を常に頭に思い浮かべながら、采配をふるう必要があるわけです。するとですね、問題が起こらないわけがないのですよ。絶対に起こるんです。起こるんですが、極力起こらないように万全の準備をして物事を進めていく必要があります。そのためには経験も必要です。現場だけを知っているだけではだめです。えらい人たちを動かさなければなりません。裏方さんにも納得してもらえるものを作らなければなりません。

ということでの「問題解決」のスキルであったり、説得するためにも使える「論理的思考」であったりするわけです。限られた時間とお金の中で優先順位をつけて必要最小限でベターなものを見つけていくのも「論理的思考」が必要でしょうね。

実際、システム構築の現場では「上流」「下流」という言葉が使われています。嫌な言葉ですが事実です。上に書いたような全体像を見ながら采配を振るい、全体像を描いていくのが「上流工程」。そこで決められたものの通りに動くものを作るのが「下流工程」です。「下流工程」の担当者は、ごまんといるのです。代わりもたくさんいる。だから、これからの社会が求めているのは「上流工程」ができる人なのです。

今は「下流」ですらできる人が少ないですので、「下流」ができる人でももてはやされています。東京では、そこそこプログラムを組むことができる経験のある人は1000万の給料をもらえるのもざらだそうです(もちろんそうでない、ブラックな環境の中で死に物狂いでやっているような人もいるのでしょうが・・・)。でも、それも10年後・・・下手すると5年後には激変するでしょう。

やはりプログラムをスキルとして小学生にやらせることなんて意味がないのです。

 

ということでまとめますが、英語教育もプログラミング教育も、今までの教育もこれからの教育も、上っ面だけを撫でているのではだめだ、ということですね。そして、教育の根本は家庭にあるということも忘れてはなりません。目の前にいる子供の本質を理解し、互いに苦しみながら互いに正面からぶつかり合いながら成長をしていくことができるのは家庭です。学校でも塾でもありません。

親のエゴもいいでしょう。大切なことです。子供にはこうなってもらいたい、という親の欲も教育の土台です。でもそれが目の前にいる子供を見据えたものになっているかどうかが大切です。目の前にいる子供を見ずに。もしくは見ているつもりが見失って親のエゴだけが独り歩きしているようではダメです。塾に預けておけば大丈夫、なんてあるわけがありません。

 

目の前にいる子供にとって何が必要かをしっかりと見極めること。それだけは間違いなくやってかなければなりません。