12月 032015
 

 

なるほど、面白い記事ですね。

目についたのは「知っているかどうか」ではなくて文中に出てきた「マスの時代は終わった」という表現です。「マス」とは「大衆」とか「大きな」とかそういう意味だそうです。「マスコミ=マスコミュニケーション」と言えば大衆(不特定多数)に向けて情報を伝達・発信すること(その行為)であり、「マスメディア」と言えばマスコミュニケーションのための手段(テレビとかラジオとか新聞とか)になります。そしてその時代は終わったと。

ちなみにマスの反対は個人、パーソナルとかプライベートだそうです。

インターネットの出現により、情報(インフォメーション)量が飛躍的に増え、その伝達スピードも飛躍的に上がりました。地球の裏側で起こった出来事も、日本とは直接かかわりのない地域で起きた出来事も、発信者さえいれば起こった瞬間に情報として知ることができるようになりました。発信者がいなければどうにもなりませんが、これもパソコンが普及し、さらにスマートフォンというモバイルデバイスが普及したことで世界中のすべての人が情報の発信者になりえるようになったことで状況が変わりました。

結果として、人は大量に無差別に流されてくる情報の波にさらされ続けることになりました。もちろん、それほど大量の情報を捌ききることはできません。人は、自分の興味のある情報・・・悪く言うと自分にとって都合のよい情報や自分にとって心地よいと感じられる情報にのみ耳を傾けるようになるかもしくはそういった情報だけにアクセスするようになります。

テレビや新聞から入ってくる情報は必要なくなります。必要ないと言うと語弊がありますね・・・ある程度情報を分別できている人にとっては必要がなくなりますし、情報の波にもまれてしまっている人にとっては自分にとって都合が悪い、聞いていて心地のよくない情報は耳にうるさくなってしまいますものね。これはとても怖いことですけれども・・・。

いずれにせよ、「マスは死んだ」という表現になるのでしょうね。

 

見方を変えると、マスが生きていた時代は楽でした。少ない情報に乗っていれば良いのです。流行があるわけですから。メディアや業界は楽だったでしょうね。情報をコントロールしやすかったわけですから。嘘でも「これが流行っています」とか「これが流行るようになります」と言って、有名人を使ってバンバン情報を垂れ流していけば、世の中がそれについてきてくれるわけですから。

インターネットとモバイル端末の普及により、パーソナルであることが不思議ではなくなり、人はパーソナルであることを求めるようになった。マスメディアの人たちの多くが、そのような世の中の移り変わりを無視して、自分たちが世論を動かせていた過去の栄光の上に胡坐をかいて努力をしなかったことが、テレビ離れとか新聞離れを引き起こした一因にもなっているような気がします。もちろん、要因はインターネットとかそういうものが世に生まれたことですから、マスメディアの人たちがどれほど努力をしたところで、という側面もあるのだとは思いますけどね。

 

ということで、マスが死んだことで流行語大賞の意味もなくなっているのだと思います。情報が限りなくパーソナライズ・・・個人ごとにカスタマイズされている世の中で、大多数の人が流行しているというキーワードが毎年必ず出てくるとは限りませんし、出てこないのだと思いますよ。例えば、私は「爆買い」というのは目にすることは多かったですが、流行語というほどのものなのでしょうか、と感じています。私自身は使ったことありませんし。

 

少し視点を変えましょう。

先日、NHKの紅白歌合戦の出場者が発表されたときに、芸人の「おぎやはぎ」のどちらかの人が、アニメ「ラブライブ」の声優さんたちの出場が決定したことを受けて「知らない人が出ることに違和感」というような意見をTwitterで発信したようですが、これはまさに「マスが死んだ」ということを認識していない発言であると同時に、マスメディアの側にいる人の感覚の欠如を如実に表していると言える出来事であったと思っております。自分たちがあくまでも情報発信の主体で、自分たちが発信している情報が世の中心、世論であるとでも思っているのでしょうか。もちろん、Twitterなんてのは個人のつぶやきで個人の意見でしかないわけなので、そこにそれほど深い意味はないのだろうと信じていますが、そうではなく、本気でその声優さんたちのユニットの出場に対して、世の意見を代表するつもりか何かで意見を言っているとしたら驚きですねぇ。

ちなみにこの「μ’s(ミューズ)」の人たち、冷静に状況を見てみると、確かに動員力はあると思われます。レコチョク?のランキングを見ると、60位・・・昨年の紅白に出ていた記憶があるのですが「きゃりーぱみゅぱみゅ」よりも上ですし、NMB48よりもゴールデンボンバーよりも上です(何のランキングかはよくわかりませんがね)。2月だか3月にはライブをやったようですが、埼玉スーパーアリーナで2daysだそうです。東京ドームが5万人くらいという規模の中ですがさいたまスーパーアリーナも3.7万人も入るわけで、2daysイコール7万人です。そうやって考えてみると、紅白に出ても理解できる程度の力は持っているのかな、とは思います。

 

私は、「おぎやはぎ」の人が知らなかった「ミューズ」は知っていましたが、自分の知らない人が多いのも事実・・・でもそんなことは今に始まったことではありませんし、NHKとしては出てもらいたい人に断られてしまって・・・という実情もあるでしょうしね。これも「マスではなくなった」ことの表れでしょう。私が子供のころなんて紅白を断るなんて考えられない、という風潮だったと思います・・・それは出演する側も見る側も、です。それが変わってしまった。出るのも自由、出ないのも自由、見るのも自由、見ないのも自由と。そしてそれは世の中の大きな流れからはみ出している動きではなく、あくまでもパーソナルな動きでしかないと。

そういうことが分かっていれば「おぎやはぎ」の人の表現ももう少し変わったのではないか、なんて感じますけどね。恐らく、私なんかと同じで「時代は変わった」ということを彼なりに表現するために使った言葉があれであったのだろうと。

 

無駄に長くなりましたが、マスの時代は人によっては生きづらかったでしょうが(大きな中心となる流れに合わせないとはみ出てしまうので)楽でもあったと思います。あわせていれば良いわけですから。でもそれがパーソナルな時代になって合わせるものがなくなってしまうと、個に拠りますので大変ですよね。人のことは気になる、自分のやっているのがどう思われるのか、どう評価されるのか気になる、そんな心理が当たり前のようにありながら、でも自分のよりどころを自分で見つけて自分で作っていかなければならないわけですからね。1人1人が微妙に異なり、世の中の大きな流れがないとなると、個と個の結びつきを見つけるのも大変になるでしょうしね。他に合わせなくてよくなったことで他に合わせることができない人が増えているでしょうから・・・。

自由であるということは、決して生きやすいわけではない、自分しか頼るものがなくなるわけなので、強くしっかりとしていかなければならい、今はそんな時代なのだなぁと思った次第でございました。

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